昨日は第一ターン(エポック)「メソポタミアの時代」の出現帝国を紹介しました、今日は第二ターン(エポック)の出現帝国の解説をします(実際の歴史では紀元前500年〜0年ごろです)。
【第二エポック世界帝国と遊牧民族】
第二エポックも8帝国と4つの遊牧国家が選抜されています。
第二エポックは「法の時代」とでも言うべきでしょうが?
西ではローマ帝国という大国が現れて文明の発祥の地であるメソポタミアにも影響を及ぼすようになります、東には漢帝国(後漢)が現れてメソポタミアまでのアクセスを得ます(ローマ帝国と漢帝国は直接の交渉はありませんでしたが少なくとも存在は認識していました)。
東西の大帝国はどちらも「法」を定義し秩序を持った国家体制を作ることで、最終的には『元祖』であるメソポタミアの大帝国(ペルシア)に匹敵するような巨大帝国に成長したのです。
(とはいえ同じ中央集権でもローマ法は共同体のルールとしての法で、中国の「皇帝の命令=法」とは随分解釈が異なったのですが)
【世界帝国】
- カルタゴ 【7/1/3】 北アフリカ(ハンニバル・バルカ)
- マヤ 【4/1/1】 中米(ヤシュ・ヌーン・アイン)
- ソグド 【6/1/3】 東ユーラシア(スピタメネス)
- ペルシア 【10/2/1】 中東(ダレイオス)
- マケドニア 【10/2/0】 南ヨーロッパ(アレクサンダー)
- マウリヤ 【7/1/2】 インド(アショカ)
- 秦→漢 【10/1/2】 中国(始皇帝)
- ローマ 【14/3/2】 南ヨーロッパ(ユリウス・カエサル)
(ここは前回と同じ説明です)カッコ内は【活力/軍事力/商業力】という形で国の能力を示しています。
「活力」の数だけコマがもらえます、国の基本的な「拡張」のベースになる力です。
「軍事力」は戦争に対する力、「商業力」は商売の力です。
【遊牧国家】
- ゲルマン 【0/3/-】 (フリティゲルン)
- チャンカ 【-1/2/-】 (?)
- フン 【+1/3/-】 (アッティラ)
- ケルト 【0/2/-】 (ウェルキンゲトリクス)
【第二エポック世界帝国の解説】
各帝国の詳細な解説を行います、ゲームには直接影響しませんが、お楽しみください。
■カルタゴ■
地中海の制海権を握っていたフェニキア人の末裔が北アフリカに建築した国家で地中海の制海権を長らく握っていた。
最終的にはローマとシチリアの支配権を巡って衝突する、勇将ハンニバルはローマ全土を震撼させたが最終的には奮闘もむなしく本国が動揺し敗北した、このときのローマの指揮官は若干19歳のスキピオでこの戦勝を称えられて”アフリカヌス”の尊称を与えられた。
一時はローマの覇権下で経済大国として再興するが、ローマの元老院議員大カトーの執拗な主張で最終的にはローマによって首都カルタゴも一切の痕跡を残さず消滅させられ、滅亡した。
……と、カルタゴは宗教ではキリスト教と(バアル信仰でベルゼブブとはキリスト教側からの蔑称)、国家としてはローマと対立したので評判は悪いがこのあたりの歴史的対抗心があることを割り引いて考えるべきだろう。
海洋国家としては一歩先に進んでおり、この時代にすでにアフリカの西部で諸部族とはすでに交易をしていたという記録もあるが逆に「海をすすんで行くと滝になっている」や「怪物がいる」というのはこれらの権益を守るためのカルタゴ人のホラだったという説もある。
■マヤ■
マヤはユカタン半島、メキシコ南部、グァマテラを支配した文明圏で、巨大なピラミッドと精密な天文学で有名である。
多い時には60~70の都市国家が存在し、チチェン・ツィーアーのような巨大建造物をいくつも建てていた。
アステカに圧迫されながらもマヤの文化圏はその後も生き残り西暦1600年のスペインの侵攻まで細々と生き残った。
■ペルシア■
世界で初めて大規模な地域の支配システムを確立した帝国と考えられている。
街道や帝国内をエリアに分けて代官を置くなどの経済振興と支配の仕組みを作った。
(上の写真は首都の一つであったバビロニアの再現セットの写真)王の道、王の目、王の耳という名で知られる、道路や情報収集の仕組み、またその支配の仕組みはその後多くの国々に取り入れられている。
インドの西部・中東全域を支配した後ギリシアへ侵攻するが失敗した(この戦いではマラトンの戦い、テルモピュライの戦い、サラミスの海戦などの英雄物語を生み出した、この逸話に至る双方の資料や逸話を集めたのがヘロドトスで「歴史」とされている書物である)。
この後政治的にはギリシアを圧倒していたが、最終的には突如台頭したギリシア系のアレキサンダーによる侵攻を受け壊滅した。
■ソグド■
ソグド人はシルクロードを担ったオアシス国家とその通商網を作った人々。ペルシアやマケドニアと中国の漢との間での通商交易を行なった。
遊牧とオアシスでの定住灌漑の両方を組み合わせた生活をしていた。
ペルシアの覇権下にあったことからマケドニアの侵略を受けている。最終的にはティムール帝国によってイスラム化され、イスラム圏に取り込まれたと考えられている。
■マケドニア■
デルフォイ神殿での”世界の王”という『神託』を受けたアレキサンダーによるペルシア侵攻は世界的に有名な物語であろう。重装備の密集歩兵(ファランクス)と、散兵、そして騎兵の効果的な運用で多くの戦い制した(ペルシア戦ではの十分の一の兵力で勝利を得ている)。
その後、支配体制が確立する以前にアレキサンダー大王が急死してしまい、即座に国家が分裂する(ディアドゴイ戦争)という流れは”ギリシアの蛮族”の名に相応しいが、この点はアレキサンダーのロマンチズムの”罪”といえよう。
もっとも有力な指導者の死後に国家が乱れるのは近代でも一般的な現象ではある。
ヘレニズムという東西交流の流れを作った(どちらかといえばアジアの優れた事物をヨーロッパに持ち込んだ)点など、文化的な面でも功績は高い。
■マウリヤ■
アレキサンダー亡き後、ガンジス川流域からインダス川流域(ちなみにこの地域の支配権はマケドニアから勝ち取ったのか譲り受けたのか、その点が定かではないが、アレキサンダーの部下たちはインドには興味が無かったようなのでなんとなく放棄されたのかもしれない)アフガニスタンまでの範囲を支配し、インドのほぼ全域の支配者となった(インド南部は未支配)。
アショーカ王の時代に最盛期を迎えるが、アショーカ王はカリンガ国(インド中部)を武力制圧した後仏教に傾倒し、武力拡張の停止、仏教の保護や、仏法を中心とした政策を行なった。このあたりの変わり身の上手さは、徳川家康を思わせる。
■秦→漢■
秦は始皇帝によって起こされた王朝でそれまで帝王学の基礎であった老子の思想に韓非子の主張する「性悪説」を取り入れ国家を律し巨大な帝国を作り上げた。
街道の整備や度量衡の統一などと共に、万里の長城の整備などを行い、現在イメージされる「中国らしい中国」を作り出したのは始皇帝である。
二代皇帝の失政で国が乱れると、有力な将軍の項羽と劉邦が台頭し帝国の継承者を争ったが最終的軍事的に優れていたとされている項羽に対し劉邦が勝利して”漢”が成立した。
ちなみに漢は成立直後、匈奴との全面戦争に入るが、白頭山の戦いにおいて完敗、匈奴に毎年貢物を送り、皇族を代々嫁がせなくてはならないという屈辱的な条件で和睦を強いられた。
漢滅亡後は地方政府が乱立したがその後有名な三国志演義で描かれる三国鼎立時代に入る。
東洋史を作った「司馬遷」はこの時代の人。
■ローマ■
ローマは地中海世界を制覇した大帝国で、網の目状の現代的な舗装街道である”ローマ街道”やローマ法、また偉大な幾多の建造物(コロッセウムや石造りの上水道)、強力でよく訓練された工兵兼歩兵の軍団(レギオン)で知られている。
世界最古の土建国家ともいえる。
歴史上もっとも有名な政治家兼軍人”ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)”により元老院を中心とした共和制から、帝政に移行した。
イメージから言うと帝政に移ってから強権政治が行われたように思われるが、実際は地中海世界の制覇は共和制期にほぼ終わっており、帝政期は国内の安定(パクス・ロマーナ)を防衛する目的での軍備に切り替わっているし政治的にも「微調整」という範囲であった。
絶え間ない蛮族の移住と政治的硬直により徐々に崩壊していくが、複雑な「政治的伝統」を維持し東ローマ帝国(ちなみにビザンツ帝国(ギリシア人の国)として別物として捉えるのはカトリック勢力の一種の僻み)は西暦1400年、オスマントルコの侵攻でコンスタンティノ・ポリスが陥落されるまで続いた。
第二エポックの遊牧国家の解説はまた後日!!
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