先日、YouTubeで組織の無能化に関する動画を見ました。
組織の中で、なぜ能力を発揮できない人が生まれてしまうのか。いわゆる「ピーターの法則」などにも通じる話です。
ピーターの法則というのは、簡単にいえば、仕事で成果を出した人が昇進を繰り返し、やがて自分の能力を発揮できない役職に行き着いてしまう、というもの。
現場で優秀な人が管理職としても優秀とは限らない。
まあ、言われてみれば当たり前ですよね(笑)
しかし、この動画を見ながら私が考えていたのは、もう少し根本的な問題でした。
私たちは「科学によって確認された当たり前」と「自分が当たり前だと思い込んでいるだけのこと」を、同じものとして扱ってしまっているのではないか?
そして、特に日本の組織では、この問題が社会の改善を妨げているように思うのです。
科学が示した「当たり前」と、個人の「当たり前」

科学的な研究結果を聞いて「そんなの当たり前じゃないか」と感じることは珍しくありません。
実際、科学が明らかにする原理の中には、説明されると直感的に納得できるものもたくさんあります。
しかし、科学の価値は「意外な発見をすること」だけではありません。
なんとなく正しそうなことを検証し、どこまで正しいのか、どんな条件で成立するのかを明らかにすることにあります。
「そう思う」と「実際にそうであることが確認された」の間には、大きな違いがあるのです。
ところが、人間はこの違いを簡単に忘れてしまいます。
科学的に検証された説明も、自分の経験から得た結論も、どちらも「当たり前」に感じられる。
そして、両者を同じ程度に信用してしまう。
(というか、「研究もしなくてわかる俺スゲー」で研究を軽視してる人が多いと思います笑)
ここが問題なのだと思います。
自分の思い込みだけは、なかなか見抜けない
心理学には「バイアスの盲点(Bias Blind Spot)」という現象があります。
他人の思い込みや判断の偏りには気づいても、自分自身の思い込みには気づきにくい、というものです。
2002年に発表されたProninらの研究でも、人は自分が他人より思い込みの影響を受けにくいと判断する傾向が示されています。
参考:The Bias Blind Spot(2002)
考えてみれば厄介な話です。
科学的な説明を聞いて、
「なるほど、当たり前だね」
と理解することはできる。
しかし、自分が以前から信じていることについては、それが本当に正しいのか、同じ水準で検証できるとは限らない。
むしろ、科学的な理論を理解したつもりになって、そこに自分の経験則や価値観を付け加えてしまうことすらあります。
本人は「理論を現実に合わせて改良した」つもりです。
ところが、付け加えた部分が根拠のない思い込みであれば、せっかくの理論を台無しにしてしまう可能性がある。
科学を否定しているわけではない。科学を理解したつもりで、自分の思い込みによって無効化してしまう。
私は、こちらの方が単純な科学嫌いよりも厄介な問題だと感じています。
ドラッカーの目標管理制度も、そうではないか?
例えば、ドラッカーが提唱した目標管理(MBO)。
本来は、組織の目的と個人の目標を結びつけ、自らの仕事を主体的に管理するための考え方です。
ところが、日本では目標管理制度が人事評価や給与決定のための仕組みとして普及しました。
ドラッカー自身は、目標と自己統制の重要性を説く一方、短期的な業績指標と報酬を直接結びつけると、組織が本来目指す成果から行動がずれてしまう危険性を指摘しています。
目標の達成率が給与に直結すれば、人は達成しやすい目標を設定したくなるでしょう。
成果が出るまで時間のかかる新しい挑戦より、目先の数字を優先したくなるかもしれません。
もちろん、人事評価を給与に反映すること自体が悪いわけではありません。
問題は、個人の主体性を引き出すはずの制度に、短期的な目標達成を優先させる仕組みを組み込んでしまうことです。
日本では1990年代に、目標管理制度が成果主義人事の仕組みとして広まったことが指摘されています。
参考:学習院大学・守島基博教授へのインタビュー
こうした導入の経緯を見ると、理論の根本にある思想より、既存の組織が使いやすい部分を優先してしまったのではないか、と感じます。
ここには、科学というより経営理論の問題も含まれていますが、構造は同じです。
理論を理解して取り入れたつもりが、自分たちの常識を混ぜることで、理論の意図とは違うものを作ってしまう。
そして、そうした制度を設計する人ほど、自分の判断には合理的な根拠があると考えているのかもしれません。
日本のエスタブリッシュメント層に感じる違和感
もちろん、こうした人間の性質は日本人に限ったことではありません。
科学史を振り返れば、古代ギリシャ以来、物体は重いほど速く落ちると考えられていた時代がありました。
ガリレオがピサの斜塔から重さの違う物体を落とし、従来の考えを覆したという有名な話があります。
実際に斜塔で公開実験を行ったかどうかは確認されておらず、現在では史実として疑問視されています。
この逸話そのものにも思い込みが混じっていたというのは、なかなか皮肉です(笑)
いずれにしても、人間が直感を過信する性質は、今に始まったことではないのでしょう。
ただ、日本について私が気になるのは、社会の意思決定を担う人たちの間で、科学的な専門知識よりも、地位や経験に裏付けられた判断が優先されていないかという点です。
例えば日本銀行。
2023年に就任した植田和男総裁は、戦後初の学者出身の日銀総裁でした。
植田氏はMITで経済学博士号を取得した経済学者です。
もちろん、経済学の博士号を持っていなければ金融政策を判断できないという話ではありません。実務経験にも大きな価値がありますし、博士号は判断の正しさを保証するものでもありません。
ただ、経済学の研究者がトップに就任すること自体が「戦後初」として話題になる組織であった、という事実は興味深いものです。
また、企業経営についても、科学的な知見や経営理論より、経営者個人の成功体験が重視される場面は少なくないように感じます。
「理論はそうかもしれないが、現実は違う」
という言葉には、確かに一理あります。
現実には理論の適用条件や例外があるからです。
しかし、理論に限界があることと、自分の経験則が正しいことは別問題です。
それなのに、十分な検証なしに「自分の方が現実を知っている」と判断してしまう。
ここには、一種の傲慢さがあるのではないでしょうか。
しかも、権限を持つ人の思い込みは、個人的な間違いでは終わりません。
制度や政策になって、多くの人に影響してしまうのです。
日本が他国より特にこの傾向が強いのかどうかは、比較研究なしには分かりません。
しかし、少なくとも日本社会を改善するうえで、検討すべき問題だとは思います。
科学を「当たり前」で終わらせないために
今回の動画にコメントを書いたのは、こうした問題意識からでした。
組織論や心理学など、研究によって明らかにされてきた知見を分かりやすく紹介する活動には、大きな意味があると思います。
だからこそ、動画を発信している人には、ぜひこうした点も意識して発信を続けてほしい。
そんなエールのつもりです。
科学的な知見を広めることは大切です。
しかし、それだけでは十分ではありません。
人は、科学的に確認されたことを「当たり前」と理解しても、自分の思い込みを同じように客観視できるとは限らないからです。
そして、自分の思い込みを検証しないまま、科学的な知見に付け加えてしまう。
その結果、正しい理論を取り入れたはずなのに、実際には以前と変わらないことをしている。
こんなことが繰り返されているのではないでしょうか。
科学的に分かった「当たり前」と、自分が信じている「当たり前」は、根拠の重みがまったく違う。
この区別ができなければ、いくら科学が進歩しても、社会がその成果を十分に活用することは難しいと思います。
そして、これは当然、私自身にも当てはまります。
日本社会にはこういう問題がある、と考えている私の見方だって、検証の対象であるべきです。
そうでなければ、自分だけは思い込みに左右されないと考える、まさに今回批判した態度になってしまいます(笑)
結局、科学的な態度というのは、科学の知識をたくさん持つことだけではなく、
「自分が当たり前だと思っていることも、間違っているかもしれない」と考えられること。
その姿勢こそが、社会を変えるためには必要なのではないかと思います。
参考リンク
- この記事を書くきっかけとなったYouTube動画
- Pronin et al. (2002) — The Bias Blind Spot
- Physics World — The legend of the leaning tower
- 日本総研 — 目標管理(MBO)の導入による組織の活性化
- 日本銀行 — 植田和男総裁の略歴
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